先日ある記事(ブログ)を読みました。
とても興味深い内容で、息子と遊ぶはずの時間を使い楽しく読ませていただきました。
そして、グダグダと思考してその内その記事について文章を書けたらいいなぁなんて思っていましたが、
本日その記事が「旬のトピック」で取り上げられているのを見て、とりあえず私も書いてみようと今この文章を書いております。
その記事は「芸術」というものについての記事でした。
岡田斗司夫さんという方の文章に触れての感想というか批評というかそういった記事でした。
親しみ易い書き方でスラスラとは読めるのですが、
いかんせん私よりも知識が膨大な方で理解し咀嚼するのは大変です。
はっきり言って、まだ半分も書かれていることを理解していない自信があります!!
ですが、多分要するに「芸術の価値について」のお話ではあると思うので、
そのことについて少し書いてみようと思います。
まずは、読ませていただいた記事を何個か挙げさせていただきます。
もうすぐ絶滅するという芸術の未来について - (チェコ好き)の日記
アート作品鑑賞なんて好き嫌いで充分 - あざなえるなわのごとし
確かに良く聞く話ではあるのです。
芸術には価値がない。大昔はあったが今はない。
複製で十分だ。馬鹿みたいなお金を出して手に入れたい心理がわかない。
美術館なんて退屈だ。などなど・・・。
そして「価値」がないから「絶滅」する・・・。
確かにそういうご意見もあって良いとは思います。
でも、じゃあ「価値」ってなんだろう?と思うのです。
「価値」とは「お金」でしょうか?
「価値」とは「権威」でしょうか?
それもあるでしょうが、それだけではないでしょうと思うのです。
では、「価値」とは「嗜好」でしょうか?
好きなモノには「価値」があり、嫌いなモノには「価値」がない?
それもあるでしょうが、それだけではないでしょうと思うのです。
そこで、私にとって「芸術の価値」とは何かをちょっと止まって考えてみました。
・・・
私は世に言う「デザイナー」という職種についております。
私は常日頃「芸術家」と「デザイナー」は違うと思っております。
どう違うかというと
「芸術家」は自己と対話し「デザイナー」は他者と対話するということです。
「芸術家」の表現は己の美意識であり「デザイナー」の表現は他者の美意識です。
このことについては賛否両論あるとは思いますが、私はそう思います。
そう考えると岡田さんの書かれている・・・
そこらのおっさんが「なんて自然はビューティフル!」とか思った絵なんて、「何の意味もねえや!」と。本当に思った(笑)。
ということ。
それは私にとって、そのまんま「意味」のあることなんです!!
なんでこのおっさんはビューティフルと思ったのか、それがそのまんま私にとっての「芸術の価値」です。
以前も書きましたが、私は「テレビ東京の美の巨人たち」はほぼ全て観ています。
そこで考えたのですが私にとって「芸術」とは「芸術家が作ったもの」みたいです。
「美の巨人たち」という番組はどちらかと言うと「芸術家の生き方」に焦点を当てている番組です。
私は、芸術家という存在が人間として何を感じ何を思ったか、
その思考を知ることで自分の立ち位置を測り、他者の立ち位置を測り、
引いてはその作品が世の中でどういう評価を得ているのか。
そういったことが必要なのです。
その芸術は1人の人間の「事例」であり、心内を垣間見れる表現の「末路」なのです。
私にとってそれがやはり「芸術の価値」です。
そして職業柄こう思うこともあります。
世に言う「綺麗」とか「醜い」とかいう感覚は誰がどこで決めているのか。
ということです。
それは、簡単に言えば『集合的無意識』としての総体なのかもしれませんが、
ではそれを常に変化・変容・流転させているのものは「芸術家」なのではないかと思うのです。
「芸術家」という存在は『集合的無意識』をある意味無視し、その外側に居て、
『個人的無意識』とでもいうべき自己自身とのみ対峙し、表現として作品として、アウトプットを続けている存在です。
彼らこそが人間の美意識の「開拓者」なのだと思うのです。
その輝かしい証として「芸術作品」とは残り評価されていくのではないでしょうか。
それは大きな「価値」ではないのでしょうか。
室伏さんが取った「金メダル」の様に、フェルメールの「青」は歴史に残る。
そして、それは「権威」とか「常識」とかを全く抜きにして「欲しい!!」「見たい!!」と思う人がいて、
そういう人がいる以上、それは「価値」を失うことはないよう思います。
私は以上の理由で、とても「芸術が絶滅する」とは思えないのです。
以上乱文でした。
終り。